目標をもって進むということは当たり前。
世の中には意識高い系といって、一生懸命する人をさげすむ発言をする人がいるけど僕はそれはおかしいと思っている。面倒くさいとか理屈っぽいと言う人もいるけど、意識高い系といって区別する方がおかしいと思う。
だれもがそうではないけど、自分がなりたいもの、やりたいことを目指して毎日を生きることを僕は大事にしたいと思っている。
そりゃー途中でへこむことはあるし、サボりたいときもある。そんなときはサボってしまえばいい。
僕らは必ず死ぬし、老いていく。思い通りに体が動かなくなるのだから、それも受け入れつつ生きていくしかない。
体が思い通りに動かなくなったときに、”想い”を残したくないから。
自分事ばかりです。僕は60になって定年することを望みませんでした。自分の退職は自分で決めたかったのです。だから、途中で県庁を辞めてました。54才で退職したのですが、準備は47才からです。7年かかりました。自分が望むとおりの人生を過ごしたいと設定しました。
体が動かなくなったらおしまいです。どんなにやりたいことがあっても、行動できないのです。
僕は連れ合いを亡くしました。今の連れ合いも、伴侶を亡くしています。死んでしまったのです。死んでしまったら、体が動かないだけではありません。想いを伝えることすらできないのです。
死んでしまったら、動けなくなったら、そう思うといても立ってもいられないのです。
アスリートがうごけなくなる前に
アスリートの寿命は、人の寿命より短い。当たり前の事です。アスリートは、命を削って練習をしています。アスリートが自らの能力(ポテンシャル)をパフォーマンスとして発揮することを望んでいます。
アスリートとしてのパフォーマンスを発揮してほしいのです。
人から言われた方法で、突き抜けることができるのか?
日本の中で、自ら経験と知識を増やしつつ自らを信じて進むアスリートは何人いるのだろうか。教育システムに組み込まれたアスリート養成、組織におけるアスリート養成。本当にアスリートのために機能しているのだろうか。そんな疑問を持ちます。
統治能力が低い指導者や先生が、選手を恐怖で縛り付ける風習が蔓延していないだろうか。
自らの成果を元に、自らのやり方を選手に強要することで、結果を出そうとしていないだろうか。
指導方法を、育成方法を学ばずに指導をしていないだろうか。
学びを深め、思考する指導者はいるが、絶対数が足りていないのが実態だと思えてならない。
身体、身体能力がことなるのだから、体の動かし方は様々。その現実を無視していないだろうか。でも、今の指導体制で、恐怖で縛られた選手は、去勢された人達ではないだろうか。
突き抜けるために、自らの武器を定めよう
あなたの武器はなんですか?
あなたが今やっている練習で、あなたの目標は達成出来そうですか?
どんな順番でやりますか?
どんな方法でやりますか?
その練習から、どんな成果が得られますか?
全てを答えること。これが自らの武器を磨く有効な方法と思うのです。