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世界で闘う覚悟があるのか?

ルール変更は誰のため?世界で闘う為にルール変更は必要か?ヒロミでさえ気づいているのに・・

まず、この記事を読んでほしい。

ヒロミ、高校駅伝のルール変更に疑問「こういう所で世界との差とか感じた方がいい」/芸能/デイリースポーツ online (daily.co.jp)

高校駅伝を仕切っている方々が、何を見据えているのかがわかると思える。というのは、あくまでも高校の結果を重視しているということだと僕は解釈してしまう。確かに高校という期間ではこのルール変更は正しいのだと思う。

その一方で、留学生を招いて勝負している高校がある。それを抑制するための方策ということも充分理解できる。

そういう意味で正しいと思える。

高校で競技が終わるわけではない

スポーツ競技が高校生活での良い思い出で終わらせるのであればそれでいいのかもしれない。そう思う人もいるのも事実だと思う。、もっと穿った見方をすれば、指導者の結果を優先しているからこその、ルール変更なのかもしれない。

いまは、競技生活を社会人まで広げている競技者が多く成っていると推測している。高校で辞めることもいるけど、スポーツはどこまでも成長するものであってほしいと僕は願っているから、高校で辞める人もいていいし、その先に行く人がいてもいい。その混在から,それぞれで何かを掴むのだと思えるのだ。

だから、あえて世界との差を実感した方がいい。僕はそう思っている。

いつまでも日本の中だけで終わって良いはずはない

もしかしたら、日本のスポーツの世界は未だに「鎖国」しているのかもしれない。外国の事例を受け入れずに、日本だけの指導経験で「よし」とする傾向があるのではないだろうか?

これから先、日本という国の中だけでスポーツが完結するはずはないのだから、他の国の事例も観察していいのだと思う。

いままではこうだったから、いままでは、これで良かったのだからで済むのであれば、悲しい現実が待っているだけなのだろう。

日本の良さと諸外国の指導の良さをミックスする

諸外国の指導を全て肯定する訳ではない。日本ならではの指導の良さを入れていても良いのだと思っている。

ビジネスでの諸外国の事例の多くは江戸時代にすでに在ったものだと感じている。公共事業におけるパブリックインボルブメントという手法、バリュー・エンジニアリングという手法。調べていると日本においてもやられていた手法と思えて仕方ない。

コーチングという手法においては、源流は仏教にあるという説もあるのだから、日本で行われていない訳ではない。そう思っている。

しかし、現代の日本においては失われていると思わざるを得ない。

それを想い出して、それを取り込んで行くことを目指してほしい。狭い世界を飛び出してほしいと思う。

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