For アスリート/スポーツ選手

スポーツの価値が高くなれば、幸せな世の中になるんだろうなあ~

スポーツは気晴らし

高校野球とか春高バレーとか高校サッカーとか見ていると、真剣勝負の良さだけを押しつけられているようにも感じている。スポーツの語源は気晴らしなんだよなあ~。と思ったりもする。

これもマスコミの影響かもしれないけど、スポーツで食っていくためにはマスコミの宣伝は欠かせないわけで、見てもらうためには仕方ないことなのかもしれない。

スポーツ中継のカメラ

過剰に真剣勝負とか汗とかを誇張しすぎてしまう様に感じたとたん、辟易としてしまうと思ったりもする。

スポーツが気晴らしである。というのは僕の解釈では本当に大事な物なのだと思っている。「寝る間を惜しんで働く」みたいなイメージで一所懸命にすることを強調する方もいらっしゃる。それはそれでかまわない。一所懸命に働く為には睡眠は必須のことなのに、睡眠を軽んじることは一所懸命に働かなくてもかまわないと言っているようにも解釈できる。

気晴らしは、僕は同様に解釈できると捉えている。一所懸命に働いたり、何か集中するために気張らしは必須である。と思うのだ。

一所懸命に働く為に気晴らしをする価値

自らスポーツをする人にとって、「気晴らし」というと真剣にやっているのにそんな風に言われるのは心外だと憤る方もいるでしょう。それは、「気晴らし」の価値を低く見積もっているからに他ならない。

気晴らしを舐めてはいけない。

音楽で気晴らしをする

僕はそう思うのだ。一所懸命に仕事しているとき、あなたは途中で別のことをし始めたり、珈琲を飲んだり、体操をしているはず。そう、同じ事を常に続けることは人間には不可能なのだ。

これは、機械(コンピューターも同じ)でも当てはまる。

気晴らしがない仕事などあり得ないのだ。だから、気晴らしは仕事と同じ位の価値があると思う。

見ている人の気晴らしにもなってしまう「スポーツ」

ヨーロッパやアメリカなどでサッカーの人気が高く、放映権料が高い。ということは見ている人がそれだけの価値を感じているといことなのだろう。

スポーツを見ることへの価値が高いということ。貨幣換算で物事を判断するのは下劣かもしれないけれど、尺度にはなる。スポーツを見ている人が感じている価値は相当高いということになるのだ。

スポーツ観戦をする観客

日本のそれとは異なっている。

日本でもお金を払ってまで、スポーツ中継を見たいと思っている人口は一定数いるのも確かなのである。とはいえ、その価値は少年期から大学までも安くなっている。といわざるを得ない。

見ているだけで、気晴らしになるなんて本当にスポーツはすごいのだ。

気晴らしには様々な手法があるので、個人個人でやってみて確かめれば良いのだし、強制する気もない。確かにスポーツを見るだけで気晴らしになるのはあるのだ。

スポーツが衰退するということは、気晴らしのひとつの方法を失うことになる

結論はこういうことなんだろうなあ。とおもうのだよね。仕事だけでも行き詰まるし、気晴らしだけでも行き詰まるし。この両方のバランスを取っておくことだとおもうのよね。仕事だけに価値が偏っていてもバランスを欠くことになる。とすれば、スポーツという気晴らしにもう少し、お金を払っても良いとおもうのだよね。

武士

文武両道という言葉があるけど、これって当たり前のことなんだよね。分けて考えていると行き詰まるのよね。両方あっていい。学校の勉強だけが”文”じゃない。気晴らしをする。これを”武”と捉えるという見方ができる様になってほしい。このままだと、文も武も低下していくと思うのよね。

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