秋の柿のみに思うこと

自分と息子の話

親というもの

acworksさんによる写真ACからの写真

親というものは、親であるだけで「子どもにはこうあって欲しい」という思いが募る。どういうものか?自分が生きてきた時間を振り返り、良かったことを体験して欲しい。後悔したことを体験して欲しくない。自分が経験していないことを経験して欲しい(良い経験だけ)。という思いが募る。

ずーっと笑顔でいて欲しい。とも思う。そう思えば思うほど、子どもの前にある石をどけたり、草をむしったりしている。いわゆるレールを敷く。というものだ。紛れもなく私もレースをしきながら子育てをしてきた。

息子達が成人し、自分が子育ての経験を踏んでくると、これではいけなかった。という反省めいたものも、意識の中で湧き上がってくる。子どもには、悔しい思いも嬉しい思いも存分に経験をさせておいた方が、のちのち良いのだと実感できる。野放しでなく、いつでも受け入れるとい気持ちも持ちながらなのだ。

でもなかなかできないのだ。何故できないのか。自分を問いただす。そうすると一つの理由が見つかる。それは、「信じていない」なのだ。きっとこの子はこれを乗り越えられない。きっとこの子は失敗し泣いてしまう。そうなるとかわいそうだから、放っておくことができない。できないなら、目の届く範囲で動かしていくことがいい。そう思ってしまう。

長男次男がいる。

長男には、いつもレールを敷いていた。過保護にしていた。

次男には、レールを敷きつつ、長男での経験を踏まえて保護の量を調整した。

今更になって、長男をもっと野放しで認めてあげていれば良かった。そんな風に後悔する。

次男には、もう少し教えてあげれば良かった。

そんな後悔がある。でも、今更昔にはもどれないので後悔することは時間の無駄になる。だから、「ここからどうするか?」という自問になる。二人とも20歳を過ぎいっぱしの大人になっている。そういう意味でも、関わり方がむずかしい。大人として関わる。そんな都合の良い言葉もあるけれど、息子は息子だ。心配もするし気になる。

とはいっても、彼らが成長する時間を無駄に使わせてはいけない。私が育っている時間と彼らが育っている時間が違うから私の経験など、アドバイスにもならない。彼らが抱えている問題は彼らしか解決できないから。解決するのは私では無く彼らしかいないのだ。もし、誰かが解決してしまえば、折角の体験を経験として自分の資産にする範囲がすくなくなってしまうのだ。

子どもというもの

あっちこっち

子どもはいつまで経っても子ども。だけど、大人になる。自分で、自分の世界をつくっていく。それは親の世界と同心円状のものではない。全く異なった平面に描くものだ。中心も描く面も異なっている。それを子どもとして認識するのはいつのことだろう。私も子どもだった。就職し、転職し、帰郷し、結婚し、家族をもった。その家庭で親と全くと言って良いほど異なった世界に身を置いていた。自覚は無い。気づいたら、違うところに身を置いていた。

子どもは気づいたら、別の人間になっている者なのだろう。

私の息子達もきっと、私とは異なるところに自分の世界をつくっていく。

離れていくさみしさはあるけど、見送ることなのだ。ただ、子どもはかわいい。それも私の中では事実なのだ!

いいたいこと

実はないのだ。自分の気持ちを整理するためにかいているだけなのだ。自分の足で歩き始めたそれを心配になって見ている。感傷的になっているだけだ。窓の外に柿の木がある。夏の間、茂っていた葉が落ちている。柿のみが黄色く熟し始めている。その光景を見ている。感傷的になっているので整理したくて書いている。

1-Pollyさんによる写真ACからの写真