窮屈に感じてない?

昨日は、久しぶりに県庁時代の仲間と飲んだ。こうやって飲める人たちがいることを幸せに思う。起業するときに、その会社との関係を悪くしてやめる人がいるけど、それって幸せじゃないと思う。

それって、今までの資産を投げ捨てることになると思うからだ。

会社を辞めるにはそれなりの理由がある。

理由は様々だ。

僕の場合は、その組織が自分に与えられた役割に窮屈さを感じたからやめた最大の原因だ。組織が悪いわけでも、自分が悪いわけでもない。

窮屈に感じたからだ。

窮屈に感じても、関係性が変化すれば吸収できる場合もある。自分の有り様を見直すと、勘違いだったりする。

視点を変えたり、視野を広げたり、行動する場所を変えたり、言動を変えたりすることで、窮屈さは変化する。

そんな風に対応することもできる。

そして、自分自身の居心地が良い空間だったり、関係性を改善することで、その組織に居続けることができる。

まあ、僕の場合はその組織で出来ないことをしたくなったから窮屈になってしまった。

ただ、最後まで窮屈を改善するために、視点を変えたり視野を変えたりすることにチャレンジしてみた。

最後まで自分の出来うることにチャレンジしてきた。

窮屈と思ったら、今の視野はどうだろう?、視点はどうなのか?言動はどうだろうか?

そう、自問自答することはいかが?

そうすると、感じていた窮屈さが変化するかもしれないよ!

自分らしさ

昔から着ていた服を脱いだのはいつだろう?
ものすごく着心地の良い、そして体型にも合っていた服
いつ、着心地が悪くなったのだろう?
数十年、長い間身体になじんでいた服だった。
着ていて楽だった。動きやすかった。

社会人になって、切るものが変わってきた。
少々ごつくなって、堅い素材のものだった。
見栄えが良い、高級そうな、いかにも一般受けしそうな服。
周りの皆が、
「似合うね!」
といってくれた。

僕はその服と付き合う決心をした。
数十年着続けた。
そして、古ぼけたその服を
僕はまだ着ていた。

手垢にまみれ、シミもついていた。
着心地が良いと思っていた服は
社会人になってから身につけた服の下に着ている。
社会人になってから身につけた服は
時代遅れになっていた。

着心地が良かった服は
小さくなった。

鏡を見た。

似合っていたと思っていた服は
みすぼらしく、すり切れていた。
着心地が良かった服もパンパンになっていた。

そして、僕は服を脱ぎ捨てた。

裸になってみた。

自分の姿を鏡に映した。
見たくない姿だった。でも、苦渋の選択をした。
その姿を、
ありのまま受け入れる。
そして、今の自分のサイズにあう服を身につけた。

そして、
再び動き始めた。
身軽になり、軽快な足取りで
自分が進みたい、歩きたい道を
小走りに駆けていった。
そして、僕は目指していた場所にたどり着いた。

そこには、今の僕にふさわしい
お酒やお菓子や食べ物、そして唄があった。
充分にエネルギーを蓄えた。

少しの休憩のあと、僕はまた
小走りで駆けていった。

そう、今の自分にあう服を身につけ
自分の好きな色、好きなデザインの服を身につけた。

僕は今、小走りに走っている。

ココ・シャネル

ココ・シャネル(2008年)の映画を3回見た。最初の2回は作業をしながら。今日はじっくり136分 腰を据えて見た。

ココシャネルは僕からすれば縁遠いブランドであり、女性へのプレゼントでもするようであれば、自ら出かけて行く。しかし、僕はそんなしゃれたことが出来ないので、縁遠いブランドである。

なぜこの映画をみようと思ったかは、おいとく。

久々に気持ちが引き締まった。見終わった後、襟を正そうとおもうものだった。

なぜなのか?

起業して2年目に突入した僕の気持ちを奮い立たせてくれるものだったのだ。

ココ・シャネルは自分を信じていた人。

そういう風に感じた。

「自分の生き方を決めれば、人はくよくよしない」

このセリフは、今の僕を表現するにはぴったりなもの。

「生き方を決める」

生き方を決めれば良いのだ。簡単なようで簡単ではない。シャネルにとっては決めなければ生きていくことすらできない。そんな環境だったようにも思う。確かに楽に生きる方法はいくつか存在したのだろう。しかし、彼女は自分の信じているものを、自分の行動で表現していく。

そう、行動からしか自分の希望は叶えられない。だから行動する。

話はそれる。

自責文化と他責文化。

自責文化とは、自分が自分のことに責任を持つ。生死、失敗も持つ。この場合、自分を責めるではなく、自分の責任を自分で持つ。そういう意味だ。失敗も成功も自分の責任である。失敗から自分は強くなる。

他責文化とは、誰かが自分のことの責任を持ってもらう。というもの。他人を責めるのではなく、自分が生きる責任を他人に持たせる。という意味。失敗も成功も誰かのおかげである。という。失敗の責任を誰かに取ってもらう。

コーチングは、アメリカで整理され体系化されている。これが成立したのは自責文化があるアメリカだからだろう。間違っても今の日本では成立しないと最近は思う。

日本に住んでいると気になる。失敗やうまくいかないことがあると誰かのせいにしたい。そんな空気。いや、発言を聞く機会が多い。やれ政治がわるい。行政がわるい。今の生活が苦しいのは誰かのせいだ。俺はもっと良い生活が出来るはず。でも誰かが邪魔をしてる。誰かが俺に何かをしている。こうして欲しい。ということを聞く機会が多い。

政治や行政に身を委ねざるを得ない状況ではある。

しかし、いろんな人や組織をブチブチ言うのを辞めて、「なぜ、こうなんだろう?」と考えてもらいたい。

政治が悪い。会社が悪い。そういう!

では、政治は誰がしている?政治家だ。

政治家がどうするとなれる?

選挙で票を獲得するとなれる。

では、誰がその票を投じているのか?それは僕たちなのだ!

政治家を信じ、任せているのであり、委ねている訳ではない。政治が悪いのであれば、政治家を選んだ僕たちがそれを選択したことなのだ。それが嫌ならば、政治家を選ばなければ良い。他に人がいないのであれば、政治家に要望をもっと浴びせても良いのだ!

誰かが行ってくれるわけではない。それほど、みんな暇じゃない。僕の代わりに文句を言う人は絶対にいない!

この社会を作り出しているのは、紛れもない僕たちなのだ!

話をココシャネルに戻す。

「世の中ってそういうものよ。今更変えられない」

というセリフがある。本当だろうか?今はその当時と比べて変わっている。まったくといって良いほど、変化した。

これは「解釈である」

自分が変わり、周りが影響されていく。そして流行になる。シャネルが流行なのだ。

さて、自分がどう生きるのかは「自分決める」のだ。

自分の今の生活に不満があるのであれば、不満のある生活を「自分で選んでいる」のである。

選択権は、自分にあるのだ!どう生きるかは自分で選択できる。

選択した後は行動あるのみだ。シャネルのように、、

シャネルはこうも言う。

「待っているだけでいいの?」

と。

僕は、誰にも強要しない。リクエストはするが、するしないは、その人が決めるのだ。

僕は、誰かの人生を抱え込むつもりはない。

僕を見て、影響される。情報提供する。これしかできない。

あなたは、あなたの幸せの為に時間を使って欲しい。

そのために、コーチがいるのだ!

参考

ココシャル 名言集